阿佐ヶ谷どうでしょう。

阿佐ヶ谷のディープな飲み屋~88箇所を巡ります。

番外編「ピノチオ」を探せ! その1


センセイのコメント

ハヤトのコメント


 それは2016年1月10日のことであった。

 阿佐ヶ谷駅北口から正面のアーケードを抜け、「なか卯」の角を左折して入る松山通り商店街で、墓場を左手に見ながら坂道を下り切きった右、現在は焼き肉屋の位置に居酒屋『青二才』はあった。その閉店の日である(当店は神保町・中野で展開中)。

 店内はすし詰め状態。全員スタンディングで吞んでいるが、バーカウンターに目をやると棚に不思議なカタカナが並んでいた。

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 これは井伏鱒二訳(昭和10年)、于武陵の「勧酒」ではないか!

 私はありありと思い出す。2007年の開店時にもメニューに「向こうみずは 天才であり 魔法であり、力です。 さあ今すぐ始めなさい」とゲーテの言葉が掲げてあった。私が当店の常連になったのは、飲食やサービスだけが理由ではない。酒に「言葉」を添えるセンスが並みではない、と直観したからだ。

 店主のひとり(神谷君)は言う。「人が酒場をつくり酒場が人をつくる」と聞いてきた。阿佐ヶ谷で飲み屋を始めてみると、当地の酒飲みには粋な人が多いと感じる。そして自分たちが「向こう見ず」から店を持ち、それを閉めることになって前日の深夜に仲間が帰り独りになったら、自分たちはお客につくられたという思いに満たされた。そこで阿佐ヶ谷にゆかりある文士の言葉を探し出し、一気に書き上げたのだ、と。

 実に神谷君らしい話ではある。写真奥には(家業だと聞く)書家としての雅号「光魚」の二文字も見える。

 私はこの詩に土地と言葉のただならぬ結びつきを感じた。井伏鱒二の家は日大二高通りと並行に一本北に入った清水町1丁目にあった。太宰治も昭和8年から13年まで、井伏を慕うようにその周辺を転々としていた。

 そして井伏は阿佐ヶ谷駅近く(現在の北口)にあった「ピノチオ」なる中華料理屋に入り浸っていた。日大二高通り近くから井伏鱒二が夜な夜な「ピノチオ」に通ったとすれば、ひょっとして下駄をカラコロ鳴らし青二才前を通ったのではないか?

 「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」という極めて創造的な訳をものしたのは1935年。この訳詩を神谷君が旧青二才のカウンターの棚に書いたのは、2016年。青二才前を夜な夜な通った井伏の言霊が80年の後に神谷君に降りてきたのではなかろうか。

 青二才があった松山通り商店街はずっと北上とすると突き当たりで日大二高通りと直交している。井伏が清水から二高通りを東に向かい、角で曲がって松山通りを南下すれば青二才前を通る。私は肌がピリピリするのを感じた。

 私は「ピノチオ」がどこにあったのか、厳密に突き止めてみたくなった。

 まず「ピノチオ」はいつ誰が経営していたのだろう?阿佐ヶ谷図書館に「阿佐ヶ谷文士村」というコーナーがあり、調べてみる。

長谷川さんは大正十四年の春から秋まで、中原中也と高円寺の商家の二階で同棲していた。そこへは小林秀雄や笠原健治郎、それに永井龍男もよく遊びに来た。・・長谷川さんからは、夜中に腹をすかせて、阿佐ヶ谷のピノチオまでソバを食べにぞろぞろ歩いていった、と聞いている。(村上護『阿佐ヶ谷文士村』春陽堂書店、1993)

 長谷川さんというのは女優の長谷川泰子のこと。彼女は中原中也と同棲していた頃、高円寺から阿佐ヶ谷まで中也と小林秀雄、永井龍男と連れだって歩き、ぴのちおで中華ソバを食べた、というのだ。なぜそのメンバーだったかというと、次兄(永井二郎)の経営だったため、永井龍男が恋愛三角関係にあった長谷川泰子、中原中也、小林秀雄を連れて行った由。

 しかしピノチオは時期によって経営者が異なっている。

実をいうとピノチオは、昭和九年には他の人の手に渡っている(村上『阿佐ヶ谷文士村』)。

 この店は後に佐藤という人の経営に代わり、ぼくなどがよく行ったのは、主にこの人の時代であった。真四角なガランとした感じの店で、まん中に大提灯が下がっているのがちょっと風変わりだった。出前がおもで、飲んだりする客はめったにいなかったが、井伏鱒二が毎晩のようにあらわれていた。
 
この人が、五、六年やったあとに岡という人の経営に変り、それからは店が近代式に改められ、会などの出来る離れがつくられたのも、その以後であった
(小田嶽夫「阿佐ヶ谷あたりで大酒飲んだ――中央沿線文壇地図」青柳いずみこ・川本三郎『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』幻戯書房、2007、所収)。



(図は、青柳・川本、同p.8所収の図版を改変。図版製作者の萩原茂氏に謝したい。「◎井伏鱒二」が清水の井伏鱒二邸、④が日大二高通り近くにあった「碧雲荘」)

昭和15年になると佐藤清は店を大学教授の加藤に譲っている。このときモダンに大改装したが、加藤は間もなく出征した。そこで権利を一万円で買い受けた岡茂が経営を引き継いだ。以来「ぴのちお」と屋号を平仮名に変え、横浜中華街にいた中国人を雇い、本場の広東料理を出した(村上『阿佐ヶ谷文士村』)。

 以上の回想が正しければ、「ピノチオ」は大正14年には永井龍男の兄(二郎)が開店し、昭和9年に佐藤清に譲渡された。さらに昭和15年に加藤に譲渡されてモダンに大改装、間もなく岡茂が「ぴのちお」と改称して本格的な広東料理屋になるという経緯をたどる。

 では井伏はいつ頃からピノチオの常連となったのか。

昭和七年か、八、九年ごろ、(注・伊馬と太宰は)互いの住居も近接していたので、阿佐ヶ谷の“びのちお”という店で夜をふかすと、つれだって荻窪まで歩いて帰ったものだ。井伏さんもごいっしょのことが多く・・(伊馬春部「“ぴのちお”の青春」青柳・川本、同)。

 ピノチオは、二代目に譲渡されてからどうなっただろうか。井伏鱒二は相変わらずの常連であった。毎日のようにビールを飲みに出かけたという。上林暁は、たまに阿佐ヶ谷駅近くまで出かけたときは、きまってピノチオを覗いた。そんなとき井伏はたいてい一人で飲んでいた(村上護『阿佐ヶ谷文士村』)。

ということだから、井伏は少なくとも昭和7年にはピノチオの常連となり、荻窪の自宅から歩いて来て夜が更けるまで飲んでいた。つまり昭和10年出版の「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」の訳詩はまさしくピノチオに通った間、すなわち青二才付近のどこかを歩きつつ、念頭にあったのだ。

 二代目の佐藤清が経営していたとき、こんな雰囲気だったそうだ。

支那料理屋ピノチオの飾り窓には、名は知らぬが、いづれ支那の海で獲れたにちがひない大魚の鰭が飾ってある。あたりの店はみんなあけ放って電燈が明るいのに、ピノチオだけはいつも硝子戸が閉まつてゐて、支那料理屋特有の薄暗い色に光が籠つてゐる。(上林暁「支那料理店ピノチオにて」)

 そして事件が起きた。

太宰の嫁を探すことに、井伏は初めて乗気でなかった。けれども太宰を心配する周囲の人が、とにかく井伏に頼むのである。時を同じくしてピノチオのおかみさんがも長女の写真を見せて、誰でもいいから、小説家志望または劇作家志望の生年に娘をやりたい、と井伏に頼んだという。(中略)

 太宰もピノチオにはたびたび行っている。写真を見るまでもなく、その娘を知っていた。あとは太宰の踏ん切りであった。三日目に決断し、太宰はピノチオの娘と結婚することを承諾した、と答える。井伏も良縁だと喜んだ。

早速、井伏はピノチオに行き、太宰のことを話そうとした。しかし、店のおかみさんの様子がおかしい。縁談の相手が太宰だという前に、太宰とだけは困る、と断るのであった。

(村上護『阿佐ヶ谷文士村』)

 昭和5年に井伏に弟子入りしていた太宰は昭和10年に盲腸炎を患い、鎮痛薬パピナールを濫用して中毒になり、借金が多額に及んでいた。興奮・禁断症状・借金・芥川賞落選・審査員への攻撃と、実生活において破綻状態にあった。

 4度の自殺未遂を経て妻と離婚、昭和11年に日大二高通りを南に曲がった木造アパート「碧雲荘」で独居していたが、井伏は太宰が立ち直るには再婚が必要とみなしたらしい。しかし小説家志望ではあっても「太宰だけはまっぴら」というのがピノチオ主人の佐藤の考えであり、真っ当な判断と誰もが同感するだろう。


(「碧雲荘」。私はここを覗いて管理人さんから庭になっていた夏みかんをもらったことがある)

 とはいえ太宰はこの時期に「ダス・ゲマイネ」「富岳百景」(碧雲荘の窓から富士山が・・)を発表しており、巨大な才能の片鱗を示し始めていた。


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