人の死が、それも職業や私生活でかかわりのない人の死が、これほどこたえることは滅多にない。55軒目。
ヨシコが亡くなった。
2016年の10月31日。別の場所で飲んでいて、隣客が「今日、山路に警察が出入りし騒然としていた」と言った。それを聞いただけで、直感的に何が起きたか分かった。だから暗に想像はしていたんだろう。でも、死ぬことだけはない、と勝手に決めつけていた。それだけ、ヨシコは「スターロードにいる」ことが当たり前の存在だった。
派出所で尋ねてみる。「数日姿を見ない」と通報があり、署員が鍵を開けて入ったら、カウンターに突っ伏していたという。後に判ったところでは、ヨシコをリスペクトする数人が気遣って携帯を持たせたり時々覗いたりはしていたらしい。死後数日は経っていた。
ワタシはというと、夏頃から珍しく店に「本日休業」と掛けていたので心配して外から呼びかけた(もちろん電話などない)ところ、「頭が痛いの。だから寝ている。脳の手術をする予定」と返事が返ってきた。場所からして、カウンターの下に寝ていたのだろう。
「2年前に大腿骨を折ったじゃない。あれから頭が痛くなるようになった」とも言っていた。それなら入院するんだろうから、着替えくらい持って見舞いに行ってやろうと我が家で話していたのだった。
そして2週間ほど前、駅ナカのベンチで弁当を食べているのに出くわし、20分は話し込んだ。その時には一転して、「病院はよく分からない病名ばかり言うから、行かない」と言っていた。
『山路』は阿佐ヶ谷を、代表しないとしても象徴する店ではあった。昭和歌謡なんて言葉がない頃、DJなんて言わない頃から、歌謡曲を一曲ずつかけては踊っていた。興が乗るとカツラをかぶったり油性マジックで化粧したりした。
店内にはどこかで拾ってきたオブジェが所狭しと置かれ、無二の空間を生み出していた。ドアは防音のために二重であり、それぞれに「敷き布団」が縫い付けてあった。
そこで爆音でかけるシーナ&ロケッツの「ユー・メイ・ドリーム」や平山みき「夜中のエンジェル・ベイビー」は、当人のライブよりも素晴らしい演奏に聞こえた。マキニカリス「小平の女」は、ここでの大ヒット曲である。まさに中央線サブカルチャーを象徴する店であった。
だがそれはヨシコの半面に過ぎない。ゲイであったが、いわゆるゲイバーのようなサービスを期待する客は怒ってしまう。好きな曲を掛けては踊り、気に入らないことがあると、そっぽをむく。リクエストは滅多に受け付けないか、かけてくれても朝方になる。だが次の日に差し支えるので、そこまではつきあえない。
昼間にワタシを見かけると、電柱の陰に隠れて手を振ってくれたりした。小学生だった息子からは、「同級生の手前、恥ずかしいからやめてくれ」と言われた。
自分勝手に見える。ワタシは『山路』が一番街にあった頃にも何回か行っているが、口をきいてくれなかった。スターロードに越してからは喋るようになったが、深夜3時頃に出ようとしても「まだ帰るな」と怒るので、行きにくかった。
ある日ふと思いつき、帰りたい時に勝手に勘定を計算して金を置き、走って逃げてみた。精算は次回の最初に。ヨシコは記憶力がよく、正確に覚えている。それでうまく『山路』とつきあえるようになった。
そんなある日、ヨシコが言った。「いつもアンタが来るとね、DJでかける曲順を考えるのよ。それなのに勝手に帰るから、リクエストを織り込んでかけられないじゃない」。なんと、客の顔を見ては大河ドラマのようにかける曲の流れを構想してかけていたというのだ。
それだけ客思いだったと言うこともできる。でも、その構想を尋ねてみたら、全50曲もある。しかも途中でどんどん横道にそれるから、結局ぜんぶかけ終わるのは翌日の正午頃になるだろう。何というか。
晩年ワタシは、いつも叱られていた。「ビンボー」を言いふらしている、というのだ。そうではない。ワタシは『阿佐ヶ谷のディオゲネス』と言ったのだ。樽に住んだ哲人である。物欲に囚われず、身の丈の住まいに暮らし、精神の自由を求めた。
ヨシコは一番街当時に昼夜問わず働き、得た貯蓄でスターロードの物件を取得した。それからはメニューも減らした。営業のために自由をなくす人が多いなか、自由を得るために樽のような店に籠もったのだとワタシには感じられた。
ある夜、実生活の弟子たちと深夜3時頃に入店、待ち人がいたのに来ないため朝7時に一斉に逃げた。ところが扉を開けると外部は一面の銀世界。4時間で積雪していたのだ。50mほど走って振り返ると、無着衣のヨシコが店から追ってきた。
笑いながらサク、サク、サクと銀世界を裸足で疾走するディオゲネス。我々は足がすくみ、追いつかれて、全員が股間を逮捕されてしまった。
またある日。ワタシは逃げたが、ヨシコは追ってこず、店の前で踊り始めた。最後は路上に寝そべって、足を上げるポーズ。
振り返ってそれを見ていたワタシの脇をひとりの男性が通り過ぎ、ヨシコに近づいていく。寝そべるゲイには無関心なのかと思った瞬間、その男性は軽く跳ね、地面に手をついて180度開脚してみせたのだ!!顔のみ私に振り返り、キメのポーズ。
路上の瞬間芸である。そして男性は、何事もなかったかのようにスタスタと向こうへ歩み去っていった。阿佐ヶ谷はときに路上が舞台と化し、芸術が降臨する。
ヨシコは去って行った。ワタシは今後、きつい仕事を終えたとき、どこに行けばいいのか?爆音の「小平の女」で洗浄されないと、脳が次の仕事へと向かわないではないか。
「阿佐ヶ谷どうでしょう。」は、『山路』を中間点とし、『青二才』をゴールにしようとハヤトと企画して始めたサイトである。『青二才』が公的には消滅したため、『山路』をゴールにと考え、後回しにしていた。生前にアップできず、残念至極である。
日本における「入りにくい店」の最高峰であった。
合掌
最初の一言が出てこない
秋晴れの空、こんなに気持ちの良い天気の下よりも
秋雨の降る夜更け、夜と気持ちがシンクロするような気分の時にしか出てこないんじゃないか
いつかこうなるのは分かっていたものの
やはり今はどうにもやることのできない空虚感だけが残り
その余韻だけが一つの時代の終わりを感じさせてくれている
自分にとって、必要なお店だったのか
飲食の仕事をしていることもあり
どのお店に行っても、この店のあれが良かったからうちでもやろう
この店のあれは良くなかったからうちではやらないようにしよう
などと自然と考えてしまう
ただ、このお店だけはどの要素を用いても
自分のやっていることに結び付けて考えることがどうしてもできなかった
飲食店というもの、ひいては何かを売ってお金を得るという
一般的な商売というものから乖離しすぎていて
もうきっと何が何だかわからないからだと思う
山路との出会い
よし子さんとの出会いと言った方が良いか
実に衝撃的だった
当時僕が旧中杉通りでやっていたお店に飲みに来て下さっていた
センセイにふいに「とんでもないお店があるから行ってみるかい」と言われ
営業中であったけれども、他のスタッフにお店を任せ
スターロードの奥地にあるその店の前に立った
会員制
PM10時開店
得体の知れない数々の植物に覆われたその店の扉
扉の裏には敷布団が貼ってあり、その内側にはさらに
もう一枚の扉があり、そこを開けると
中によし子さんがいた
濃いメイク
薄い生地で胸元がちらつく衣装
その本体は年齢不詳のおじさんだった
心の中で思っていてもグッと我慢をして言葉に出してはならない
おじさんなどと言えば即座に「出てけ!」と言われるであろう
言われたわけではないが山路にはいくつかのルールがあった
出てきたものをほめる(ここのグレープフルーツサワーはなぜだかとんでもなく旨い)
よし子さんの衣装を褒める(衣装以外にも、肌の調子や、セクシーですねなどととにかく持ち上げる)
爆音でかけてくれた音楽に乗る(CDプレーヤーからアンプに繋ぎ、数個のスピーカーに出すのだが、たまに容量オーバーでアンプが落ち無音になる、がそれも楽しむ。天井からぶら下がっているシンバルを置いてあるアルトリコーダーで叩いたりして盛り上がるのも良かった)
すると徐々に機嫌が良くなり「仕方ないわねえ」などと言いながら僕らみたいな若い世代でも知っているような曲を流してくれる
きっとツンデレという言葉が世に出るずっと前から、それを地で行くような人だった
よし子さんの不意に見せてくれる優しさを味わうためなら
店の中に様々な昆虫が這っていたり
グラスが汚れていたり
椅子やカウンターがボロボロでも良かった
そこはやはり飲食店という範疇ではなく
よし子さんの生き方に触れることのできるただそれだけの場所だったのだと思う
無数に積まれたCDの中から、その日いる僕らのために
曲を選び爆音で流してくれるのだが
最高潮に機嫌が良くなると
小平の女
という曲を流してくれる
ここで知った曲なのだが、ここ以外で聞くことはなく
この爆音で流し、僕らのお酒による酔いや、山路の空気、目の前に少し自慢げなよし子さん
これが重なり、きっとずっと忘れることのできない曲であることには違いないと思う
爆音昭和歌謡
スターロード
グレープフルーツサワー
小平の女
これらの要素一つ一つはこれからもどこかで
存在するであろうし、触れることがあるかもしれない
だがよし子さんがいて、全てが揃い
あの山路の空気が醸されることはもう叶わないのだと思うと
やはり言葉にならない思いになる
決して僕にとって必要なお店だったとは思えない
知らなければそれはそれで問題なく、そのままの人生を歩んでいたと思う
でもよし子さんを知ってしまった以上
やはり彼ではなく彼女の生き方がずっと心に残るのだと思う
夜の10時にオープン
それを見るだけでも
きっと夜に生きることを決意したのだと思う
ただひたすらに自分に対しまっすぐ生き抜いた人生
僕には出来ないし
憧れることもないが
人生の大先輩として最後までよし子であることを貫いたそんな彼女に
合掌
(30代 飲食店経営)